たおやめぶり


文学の考えさせる力。

2013年06月17日 00:32

尊敬する水上 勉氏の短編に、「この冬」という佳作があります(新潮文庫 『醍醐の桜』所収。)。

目の不自由なかつての教え子と再開する話なのですが、その中で、江戸時代から文化水準、教育水準も高く、名君も生み出した若狭の国に、なぜ原発銀座が生まれたのか。なぜ、長い激しい反対運動や村長リコールも含む苦しい騒動を重ねても村民がこのような結果を選ばざるを得なかったのかが、言外に見事に描かれています。

福島第一原子力発電所事故という悲惨という言葉ですら形容できない、最悪の人災のはるか以前にあらわされた作品です。

私は、この事故について、もっと、電力会社、政治家、地方政治家、技術者、研究者の責任は追及されるべきだと思います。

でも、忘れてはならないこともあります。

戦後、非転向を貫いた共産主義者の方々を中心に、「戦争協力文学者」を糾弾する運動があり、その中には、著名な画家さえ含まれていました。

確かに、非転向を貫いた彼らには敬服しますが、他方で、彼らに対し、何の批判ができなかったことも事実です。また、非転向を貫かれた方々も獄死された例もありますが、逆に戦地に送られなかったため、生命を失わずに済んだという例もございました。

 

こんにちはどうでしょうか?確かに東電の当時の安全管理はコスト削減を美名にした、不十分なものであったことは事実ですし、当時の経営者は刑事責任も含めて責任を問われるべきでありましょう。

しかし、原子力の研究者の中には、自ら被爆しながら命がけで研究を続けていた、真の学究も大勢いらっしゃいました。

また、原発推進派から早期に「転向」された方々の中には、原子力研究機関で、税金で生活されていた方もおいでです。

真に、原発に反対するのなら、職業的な市民運動家や著述家におなり遊ばすべきではなかったのでしょうか?

彼らに、被ばくの危険と闘いながら、もくもくと研究をしていた人々を糾弾する権利はあるのでしょうか?前にも同じような現象が文壇でなかったでしょうか?

私は、世間的な用語でいえば、いわゆる「脱原発派」「安易な再稼働反対派」ですが、他方で、命がけで原子力研究に取り組んでこられた方々を非難・嘲笑・愚弄する気は毛頭ありません。嘘でもなんでもなく、優秀で真摯な研究者・技術者は大勢いました。こうした方々を蔑んではいけません。また、こうした人材の海外流出を許すべきでもありません。きちんとご家族も含めて生活保障をすべきです。

 

そうした措置を講じたうえで、政治主導のもと、脱原発、再生エネルギー促進に向け、大きく舵を取るべきだと考えます。

日本は地熱発電や風力発電など、再生可能エネルギー、自然エネルギーのポテンシャルが高い国です。

さらに、安全面を考えると必ずしも原発がコスト安とも言えません。国防上や対テロ対策上も原発立国は危険です。

フランスやスウェーデン、中国とは国情が異なるのです。

真剣な国民的討議と熟慮の元、上記決断をすべきです。

一時の感情に流されて「戦犯」を見つけ出し、つるし上げてうっぷん晴らしをすませたら、あとは物を突き詰めて考えようとしない。

廃炉のプロセスや廃棄物の最終処分もどうしようか、国を挙げて真剣に考えない。

一時的な株価乱高下で一喜一憂を繰り返している。

このような現状では、もはや日本は「国民の人権を守るために存在している。」近代国家の体をなしているとは言えません。これは実に恐るべきことです。

66年間以上に及ぶ我が国の民主制は、一人の天分ある文学者の深い洞察にも及ばないようです。悲しいというほかありません。

最後に、これだけは申します。政治家諸氏よ、「脱原発」を旗印にするのは良いが、内部抗争を繰り広げるのはやめなさい。どうして「小異を捨てて、大同につく。」ことすらできないのか?情けないぞ。「分割して統治せよ。」というローマの格言そのままではないか。

エネルギー政策は、ファツションやブーム、トレンドとはわけが違うのだ、冗談抜きで「国家百年の計」がかかっているのだ。そこを真剣にそれこそ命を懸けて考えよ。

想像力が不足しているなら、上記のような優れた文学作品に数多く触れ、それを養いなさい。上から目線の物言いで大変恐縮だけれども、真剣にエネルギー問題を考えているからこそ、これを書いているのだ、筆者を恨んでもよいがもっと真剣にわが身を顧みて考えよ。以上。

 

 

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