たおやめぶり


文語訳聖書。

2013年06月21日 21:18

新約聖書邦語訳は、日本聖書協会の「口語訳」と「新共同訳」だとよく言われます。個人訳では田川建三博士の「新約聖書『訳と註』」(作品社)が注目されます。

旧約の個人訳ですと関根正雄先生の訳業が有名ですよね。

閑話休題、訳文の正確性は別として、名調子という点では、いまだに新約聖書「文語訳」の愛好者も多いです(同時代人には不評だったようですが・・・。)

例えば、こんな調子です「禍害なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言う、『我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに与せざりしものを』と。」

 

思い当たることがあります。かつて美濃部達吉博士が、一木 喜徳郎博士の説を発展させ、いわゆる天皇機関説を唱えられ、のちに排斥されたときに、多くの学者は何の抵抗もしませんでした。

現在では「天皇機関説事件」はどの歴史教科書やどの憲法教科書(よほど特殊なものは別として。)にも、紹介され、貴重な教訓として引用されています。

 

では、戦後の憲法学者の現実の行動はどうでしょうか?

戦後の学者の殆どは、9条がらみの事件や、公務員の政党ビラ配布問題(これはこれで重要ですが。)に関しては異常なまでに取り上げたくせに、既に1950年代から世界的に問題視されていた、我が国特異のハンセン病者隔離政策はじめ、前記事のような児童虐待問題、旧教護院内などにおける逸脱児童に対する一部教官・法曹らによる破廉恥行為、精神障碍者処遇問題、老人施設における虐待、犯罪被害者の人権、モンスター化する父母と対峙する教師の人権(民対民の関係だと割り切れないものを含んでいます。)、加害者家族の人権、殉職自衛官の遺族補償問題などについて、耳を塞いできました。

 

ようするに、自分が関心があり、しかも、取り上げても「面倒な問題」に巻き込まれる虞のない問題にだけ、首を突っ込んで、多くは10年後には忘れ去られる論文や判例評釈を粗製濫造してきただけです。

これが偽善でなくてなんなのでしょう?

 

最近の憲法学説では、天皇・皇族の人権を否定する見解が再び有力化しているようです。

人権規定の歴史を踏まえれば、間違っているとは言えません。

しかし、先ごろ、英国王子妃のプライヴァシーが俗悪誌に暴かれたときに、英国政府は迅速に差止請求を行いました。

恥ずかしながら英国法には暗いので、請求の根拠は不明ですが、王子妃に民事(英米法は民刑事の境界が大陸法ほど明確ではありませんが。)差止請求権があることを前提としていると理解するのが自然でありましょう。そうであるとすれば、膨大な私有財産を有し、未だに形式的には法律裁可権すら有している英国王(日本の天皇陛下よりも遙かに君主としての力は強い。)の親族の人権享有主体性は否定されていないとも考えられます。

 

翻って、日本では、特定皇族のプライヴァシーのみがやり玉に挙げられ、中傷記事も含めて俗悪週刊誌をはじめ、各メディアの生贄にされている状況であり、御労しい限りです。

他方で、実に不思議なことに、なぜかほかの皇族の方々はご安泰のご様子です。

むしろ両陛下はじめ、上記特定皇族以外の方々に対しては、礼賛報道のみが執拗に繰り返されています(ごくまれに例外もありますが、明らかにアンバランスです。)。

 

憲法学者諸氏はこの状況をどう考えているのでしょうか?

お得意の「皇族人権否定論」や「人権の飛び地論」に安住して、我々には責任はないというおつもりなのでしょう。

彼・彼女らには、美濃部博士や、時の国王と対立して大学を追われたグリム兄弟の苦悩など永遠に解らないでしょう。

 

最後にもう一度、文語訳聖書を引用します。

「蛇よ、蝮の裔よ、なんぢら争でゲヘナの刑罰を避け得んや。」

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