たおやめぶり


進子内親王

2013年06月18日 19:44

見るままに壁に消え行く秋の日の時雨にむかふ浮雲の空

あはれさらば忘れて見ばやあやにくに我が慕へばぞ人は思はぬ

どちらも風雅集の進子内親王のお歌です。

古より、女帝、内親王の御作の中には、和歌の清華とも評すべき珠玉のお歌が多いのですが、どちらも個人的に大好きなお歌です。

進子内親王は伏見天皇の皇女としてご生誕遊ばしましたが、悲しいことに、名君伏見天皇の御世のころから、いわゆる持明院統と大覚寺統の対立が先鋭化してもはや収拾不能な事態に陥りつつありました。いまだに真相は不明ですが、伏見天皇弑逆未遂事件まで起こっています。

両統の対立には、単に皇位継承だけでなく、膨大な荘園の配分争いも絡んでいました。

注目されるのは、両統とも、主要な荘園群を皇女から継承している点です。

持明院統を経済的に支えた長講堂領は、後白河法皇皇女の宣陽門院が60年ほど管理して、同院の猶子となられた後深草天皇に相続されました。

一方で、鳥羽天皇の皇女八条院に伝えられた八条院領は、高倉院を通じて、その皇女安嘉門院に承継され、大覚寺統の荘園となりました。

西欧の一部地域では、サリカ法典59章の女子土地相続権禁止規定が拡大解釈され、女子ないし女系の王位継承権が否定されていた時期もありました(現在でもそれを貫いているのはいまだに国王大権を保持しているリヒテンシュタインのみ。)。しかし、我が国ではそのようなことはありません。

また、現皇統は持明院統の流れですが、持明院統(北朝)は観応の擾乱時に、三上皇並びに皇太子が南朝方により、すべて賀名生に幽閉される事態となり、皇統断絶の危機に瀕しました。「男系男子の皇族」はいらっしゃいましたが、それだけで皇統が継げるという甘いものではなく、皇位継承のためには、立太子されているか、あるいは諒闇践祚の際は三種の神器が、受禅践祚の際には「譲国者」(天皇ないし上皇、法皇)からの譲りの儀式が最低限必要でした。

そこで、後伏見院のご正配であらせられた広義門院さまが「譲国者」となられ、受禅践祚を経て、後光厳天皇が即位遊ばされ、北朝は存続しえたのです。

広義門院さまは、その後も「治天の君」として、毅然として荘園などの管理をなさいました。

現皇統が存続し得ているのも、広義門院さまのお力と申し上げても決して過言ではございません。

昨今、「男系男子主義」だの「男系主義」だのといった言葉が安易に用いられ、甚だしきに至っては「旧宮家復帰論」などという妄説まで唱えられていますが、悲しい限りです。男系承継主義などより、もっともっと大事なものがあるはずです。

思えば、皇室の失墜は、保元の乱より始まりました。

鳥羽院は、後白河天皇の人格を問題視し、皇女八条院に皇位を承継させるご意向がおありでした。

歴史にIFは禁物ですが、八条院の登極が実現されていれば、保元・平治の醜態はなかったかもしれません。

今日同じ愚が繰り返されないことを切望いたします。

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