たおやめぶり


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2013年06月24日 21:28

安部 譲二氏

私は、政治的・思想的信念が自分と異なっていたり、著者の人生経歴が特異であっても、作品から感銘を受けた時には素直に感謝し、評価しております。

安部譲二氏は、特殊な経歴から、いまだ文壇から十分な評価を受けているとは評しがたく、また、思想信条において私と異なる部分もございます。

しかし、下記2作からは、考えさせられることが多かったので紹介いたします。

 

①「渡世の学校」 リイド社 

②「RAINBOW  二舎六房の七人」原作 安部 譲二 作画 姉崎正澄 小学館

 

①は、彼独自の人生哲学を述べたもので、賛同できない部分もありますが、独特な鋭さが随所に見られ、考えさせられました。

自分と全く異なる人生を歩んでこられた方の著作からは教えられることが多いです。

 

②は大部なコミックであり、もちろん、基本的にはフィクションですが、戦後間もないころの逸脱児童処遇や偽善的里親などの醜態が余すことなく記されており、問題提起は今日的です。

一部でもよいので、お時間がおありでしたら、ご一読を勧めます。

 

それではまた。

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2013年06月24日 20:19

蘆刈と吉野葛

蘆刈と吉野葛はどちらも谷崎文学の清華だと考えております。

是非、ご一読を勧めます。

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2013年06月22日 21:43

「文化防衛論」と「政治青年死す」

1 週刊誌天皇制

三島由紀夫の慧眼には敬服します。バタイユからあの程度のことしか学べなかったのかと突っ込みたくなりますし、楯の会の軍服も嫌いですが、さすがにこのあたりの嗅覚は天才的です。

現在の皇室のあり方は、まさに上記一言で要約できるでしょう。

とりわけ両陛下は、マスメディアにどのように映じるかを非常に強く意識していらっしゃるように見受けられます。

一見護憲的な発言や(皇太子時代からの)公法学会重鎮の葬式参列などで、左派の歓心を買い。

皇太子時代には、不熱心だった宮中祭祀に先帝陛下以上に熱心に取り組むポーズをとることで右派の歓心を買う(このあたりの巧みな変節について、比較的よく勉強されている横田耕一さんあたりに『皇太子時代には逆の批判が強かったことをおもえば、隔世の感がある。』とか皮肉めいたことを言われちゃうわけでしょう。)。

その辺のバランス感覚はおありのようですね。

でもさすがに、そろそろメッキが剥げつつあるようにも見えますがねぇ。

 

2 「政治青年死す」について

いまだに、大江氏の事実上の全集(大江健三郎小説 全10巻 新潮社)にさえ収録できないらしいですが、右翼の九割がたはこの批判に要約されるのでは?

要するに、真の実力もなく、根はひ弱だから、「天皇」と一体化することでエクスタシーに達する。

天皇にしてもいい迷惑でしょう。

神社神道関連で、比較的右寄りの人と接することが多いからかもしれないけど、「大いなるもの」との一体化がなければ、自己の尊厳が保持できないというタイプが多くて正直嫌になる。日本で、コミュニタリアニズムが八木さんみたいな形で受容されていく理由もよく解る。

もっと、「自分自身」に尊厳のよりどころをもとめられなのかなぁ。ピュアな人が多いから、嫌いじゃないんだけど。センスが合わない。

 

3 告白

やはり、これは申し上げておくべきと思うから、申し上げます。

私自身かつては男系男子派でした。

しかし、憲法2条の趣旨を踏みにじる不可解な懐妊劇や、その後のメディアの恐るべき変節を通じて、徐々に、

①現段階で、男女を問わない直系第一子優先主義の皇位継承に改めた方が、皇統の安泰につながる。

②男系主義については、誠に畏れ多いことではあるが、内親王殿下のご正配に旧宮家や皇別摂家のしかるべき末裔の方をお迎えすればよいのではないか。

という考え方に変わってゆきました。しかし、現在の日本では受け入れられない考えのようです。

自分なりに、皇室の弥栄をご祈念申し上げてきたのに、事あるごとに乱臣賊子呼ばわりされ、さすがに、もううんざりです。

 

4 忠告

信じる信じないはご自由ですが、「男系男子派」の中には、隠れ共和主義者も多いですよ。

特に、左翼からの転向者系男系男子派に多いです。

そこそこ有力で教科書も著わしてる憲法学者が、内輪の席で心を許したのか

「男系男子主義を維持すれば、近い将来、皇位継承資格者がいなくなる。『天皇制』は既にその歴史的使命を終えている。そのような形での終焉が一番いい。」と語ったことがあります。ちなみに、その彼も男系男子派です。

 

5 愛の反対は無関心

男系男子派から見れば、私みたいなのは、罵倒の対象なのでしょう。何回、意見を交換しようとしても平行線のままです。

ただ、愛の反対は無関心です。

厳格な男系男子派からは、憎しみの対象、一方的な侮蔑の対象でしょうが、自分なりに皇統皇位のことを真剣に考えているからこそ、貴重な時間を削って投稿してきたのです。ただ、私もさすがにもう疲れました。これからは多くの国民と同様に、皇室に対して無関心になるかもしれません。

その方が、自分にとっては楽ですし。

 

6 おことわり

文芸談義の中に、皇室論議や政治論議を加えたことにつき、異様なまでの不快感をお示しになる「勢力」が存在するようですので、この辺でもう、この話題には触れますまい。一体、この国はどうなりますことやら。

これからは、原則としては、文学談義に専念することにいたします。

 

 

 

 

 

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2013年06月21日 21:18

文語訳聖書。

新約聖書邦語訳は、日本聖書協会の「口語訳」と「新共同訳」だとよく言われます。個人訳では田川建三博士の「新約聖書『訳と註』」(作品社)が注目されます。

旧約の個人訳ですと関根正雄先生の訳業が有名ですよね。

閑話休題、訳文の正確性は別として、名調子という点では、いまだに新約聖書「文語訳」の愛好者も多いです(同時代人には不評だったようですが・・・。)

例えば、こんな調子です「禍害なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言う、『我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに与せざりしものを』と。」

 

思い当たることがあります。かつて美濃部達吉博士が、一木 喜徳郎博士の説を発展させ、いわゆる天皇機関説を唱えられ、のちに排斥されたときに、多くの学者は何の抵抗もしませんでした。

現在では「天皇機関説事件」はどの歴史教科書やどの憲法教科書(よほど特殊なものは別として。)にも、紹介され、貴重な教訓として引用されています。

 

では、戦後の憲法学者の現実の行動はどうでしょうか?

戦後の学者の殆どは、9条がらみの事件や、公務員の政党ビラ配布問題(これはこれで重要ですが。)に関しては異常なまでに取り上げたくせに、既に1950年代から世界的に問題視されていた、我が国特異のハンセン病者隔離政策はじめ、前記事のような児童虐待問題、旧教護院内などにおける逸脱児童に対する一部教官・法曹らによる破廉恥行為、精神障碍者処遇問題、老人施設における虐待、犯罪被害者の人権、モンスター化する父母と対峙する教師の人権(民対民の関係だと割り切れないものを含んでいます。)、加害者家族の人権、殉職自衛官の遺族補償問題などについて、耳を塞いできました。

 

ようするに、自分が関心があり、しかも、取り上げても「面倒な問題」に巻き込まれる虞のない問題にだけ、首を突っ込んで、多くは10年後には忘れ去られる論文や判例評釈を粗製濫造してきただけです。

これが偽善でなくてなんなのでしょう?

 

最近の憲法学説では、天皇・皇族の人権を否定する見解が再び有力化しているようです。

人権規定の歴史を踏まえれば、間違っているとは言えません。

しかし、先ごろ、英国王子妃のプライヴァシーが俗悪誌に暴かれたときに、英国政府は迅速に差止請求を行いました。

恥ずかしながら英国法には暗いので、請求の根拠は不明ですが、王子妃に民事(英米法は民刑事の境界が大陸法ほど明確ではありませんが。)差止請求権があることを前提としていると理解するのが自然でありましょう。そうであるとすれば、膨大な私有財産を有し、未だに形式的には法律裁可権すら有している英国王(日本の天皇陛下よりも遙かに君主としての力は強い。)の親族の人権享有主体性は否定されていないとも考えられます。

 

翻って、日本では、特定皇族のプライヴァシーのみがやり玉に挙げられ、中傷記事も含めて俗悪週刊誌をはじめ、各メディアの生贄にされている状況であり、御労しい限りです。

他方で、実に不思議なことに、なぜかほかの皇族の方々はご安泰のご様子です。

むしろ両陛下はじめ、上記特定皇族以外の方々に対しては、礼賛報道のみが執拗に繰り返されています(ごくまれに例外もありますが、明らかにアンバランスです。)。

 

憲法学者諸氏はこの状況をどう考えているのでしょうか?

お得意の「皇族人権否定論」や「人権の飛び地論」に安住して、我々には責任はないというおつもりなのでしょう。

彼・彼女らには、美濃部博士や、時の国王と対立して大学を追われたグリム兄弟の苦悩など永遠に解らないでしょう。

 

最後にもう一度、文語訳聖書を引用します。

「蛇よ、蝮の裔よ、なんぢら争でゲヘナの刑罰を避け得んや。」

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2013年06月21日 17:49

凍りついた瞳

私は、漫画と文芸は同一のスペクトラムに含まれると考えますので、優れた漫画作品も拙ブログでは取り上げます。

「凍りついた瞳」 ささや ななえ著 (YOU漫画文庫) 集英社 1996年という作品があります。

児童虐待を正面から取り扱ったという以外に、私の拙い筆では、表現できません。

正直に告白しますが、いまだに読了できておりません。「重たい」とかそういう次元を通り越しています。

でも、決して目をそむけてはいけないと思うので、必ず完読します。いや、どんなにつらくとも何度も読み返します。

皆さまにも、悲しいという軽薄な表現ではとても表現できないけれども、こうした現実がある以上、一度は読んで頂きたいです。

 

なお、「児童相談所 『父親による虐待』が問題化しないのはなぜか」(新潮文庫 「日本の聖域」『選択』編集部編 129頁以下)も併せてご参照くださいませ。

どんなに吐き気を催すような現実であっても、現実から目を背けてはなりません。

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2013年06月21日 17:33

田中慎弥氏

私は、田中慎弥氏の作品は好きで、刊行されたものは単行本化されていない連載も含めすべて読んでいます。

件の記者会見ばかりが取り上げられていますが、サービス精神があり、誠実に読者と対峙され、一見難解でも実は解りやすい作品を物される作家さんだと理解しています。

田中氏によれば、安倍晋三首相は再登板以前に、同氏に対し、「作品を読んだけど難しかった。」という趣旨の発言をした模様です。

まあ、文学の理解は人それぞれですからそれはそれで構いませんが、申し訳ないけれども、安倍首相は率直に申し上げて頭が悪いと思います。

潰瘍性大腸炎再燃をおそれてかどうか知りませんが、いまだに正式に官邸入りしていないらしいですし、危機管理体制という点でも宰相にふさわしいのでしょうか?

同じく炎症性腸疾患であるクローン病を抱えながらも、第二次大戦を戦い抜き、戦後大統領をに8年つとめあげ、勇退時にはいわゆる「軍産複合体」への警鐘まで鳴らしたアイゼンハワー大統領とは器が違います。比べるのも失礼でしょう。

実際には、切れ者の菅官房長官以下、官邸スタッフが実務を取り仕切っているのでしょう。お気の毒です。

日本人は「空気」に流されて投票する傾向が強いから、恐らく都知事選は安倍自民の圧勝でしょう。

でも、7月の参議院通常選挙でも、安倍総裁が率いる安倍自民党に投票する有権者の見識を疑います。

都知事選くらいならそれほど実害はありませんが、参院選の結果は、近い将来、日本人自身に降りかかってくるでしょう。

「空気」なんぞに流されず、自分の頭で考えて良識ある選択をなさっていただきたいと切望します。

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2013年06月20日 15:23

「風立ちぬ」と「風博士」

堀辰雄の「風立ちぬ」は、一部の心無い評論家などから「肺病文学」などと揶揄されたためもあってか、近頃はあまり読まれていないようです。

しかし、洗練された文体や手法から謙虚に学ぶべき点は多々ございます。是非、一度は手に取っていただきたい名作です。

 

坂口安吾の「風博士」は牧野信一の激賞を受けた佳作です。

坂口安吾の意外な一面を知ることができる作品ですので、同じ「風」つながりで、こちらもご一読をお勧めします。

 

牧野信一も近年、再評価の動きがあるのは喜ばしい限りです。

とりあえず、比較的入手しやすい作品として、「ゼーロン・淡雪」(岩波文庫)を掲げておきます。

 

近頃多忙であり、次回更新はいつになるかわかりません。

生来、怠け者ですので、今後ともおおらかな気持ちでお付き合い頂けますと幸甚です。

それでは失礼いたします。

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2013年06月20日 15:18

アホノミクス

いささかブログ主題から脱線します。

前日本銀行総裁の白川方明氏は、学究肌ながら手堅い実務家でいらっしゃいました。

後任者についてはお気の毒なので何も申し上げません。

ただ、A首相の蔭にいるY代議士は恥ずかしくないのでしょうか?

人間は「分」を知ることが大切です。

東大経済学部を出ようが、一時期大蔵省に勤務経験があろうが、所詮、政治屋は政治屋に過ぎません。

あまり腹立たしいのでつい余計なことまで書き連ねました。

次回からは、ブログ本題の主題に戻ります。

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2013年06月19日 21:48

神皇正統記の読み方。

「大日本者神國也」で始まる神皇正統記は、一般には伊勢神道の強い影響下で、南朝の正統性を主張した書とみなされています。

確かに、そのような理解もできます。

しかし、彼が一貫して訴えているのは、「不徳の皇統は断絶し、有徳の皇統に移行する。」という厳然たる事実でございます。

北畠親房は、立場上、南朝を擁護せざるを得ませんでしたが、彼の理論を突き詰めれば、南朝の消滅も説明できます。

そもそも後醍醐天皇は、大覚寺統でも傍系で、中継ぎとして践祚・即位なさったにすぎませんでした。

ところが、亀山法皇や後宇多上皇の遺志に反し、皇統皇位をご自身の直系にのみ継承させようとなさり、常盤井宮家や木寺宮家を冷遇なさいました。

そればかりか、武家の実力を軽視し、失政も繰り返されました。

南朝の内部抗争は、吉野時代になっても変わらず、長慶上皇と後亀山天皇はご兄弟でありながら、不仲というありさまでした。

これでは、いかに神器を伝えておられようが、皇統が北朝に移るのも理の当然と申せましょう。

そもそも、三種の神器は正統な皇位継承に伴って移転するのであり、三種の神器を保持しているから皇位にあることが正統化されるというのは完全に論理が逆転しています。

南朝は結局、一度も完全な形では京都を掌握できず、「即位」の儀式すら挙行できなかったから、北畠親房は三種の神器の所在をもって、南朝が正統と強弁せざるを得なかったのでしょう。その点では気の毒です。1392年以降も、南朝復興勢力により、三種の神器の一部が京都から奪われたことはありますが、結局、現皇統に復帰し、南朝復興勢力(いわゆる後南朝)は歴史の表舞台から姿を消しました。

これももとはと言えば、後醍醐天皇の「失徳」が招いたことです。

ご興味のおありのある方は、別の著者ですが、「中興鑑言」をお読みください。入手困難ですが、漢文の素養があればお読みになれましょう。

 

話は変わりますが、IOCという組織があります。

民間団体というのが味噌で、以前から買収や縁故採用などの噂が絶えません。絶大な権力を誇っておられたサマランチ氏は、フランコ将軍と握手している証拠写真まで残っている人物で、広義のファシストと評価されてもやむを得ない人物です。

現在、古代オリンピック以来の由緒ある種目であるレスリングが存続の危機に曝されている一方で、競技人口も減少し、人気も低迷している近代五種廃止の動きはありません。理由はいろいろありましょうが、、サマランチ氏の親族が近代五種に理事として関与しているからであるという風説も一部で囁かれいます。

敢えてお名前は挙げませんが、IOCの関係者で、ご先祖にかの731部隊に間接的に関わっておられた疑惑のある人物が、しきりに「旧宮家の復帰」を主張されているようです。ご真意は不明ですが、浅学菲才のわが身には到底理解不能です。

いかなるご事情があろうとも、一度、皇籍離脱なさったからには、天皇のご実子(宇多天皇)でもない限り、皇位を窺がう野心は放棄して、主御一人に対し、臣下として忠誠を誓う(確かに、様々な特殊事情から臣籍降下後に皇籍に服された例は古来より複数ありますが、それらは皇位を承継しないことを明示又は黙示の前提としていました。現に、臣籍降下後に皇籍復帰され、践祚・即位遊ばされたのは、上述の宇多天皇とその第一皇子の醍醐天皇の二例のみであり、これは例外中の例外であり、とても一般化できません。)のが我が国古来の伝統であります。

畏れ多くも、正統な天子さまから起算して十数代も下っており、しかも既に皇籍も離脱しているにも拘らず、皇位継承権を取り戻そうという発想自体、想像もできません。なんと恐ろしい世の中になったことでしょうか。

 

君臣の別の乱れは、必ずや国家の乱れを招きます。想像するだに戦慄を覚えずにはいられません。

 

簡潔にまとめましょう、

皇室典範改正が悪いわけではないのです、私も、男女を問わない直系第一子優先主義の形に改める典範改正ならばもろ手を挙げて賛成します

他方で、現在、一部で強力に主張されている「旧宮家復帰」「養子制度解禁」などは、我が国古来の美徳である「君臣の別」を曖昧化しかねず、絶対に反対です

それと同様に、私は憲法改正論議自体には反対はしません。問題なのはその内容です。私は、衆議院における「一人一票」(投票価値平等)の明文化や参議院の権限縮小、及び参議院改革(例えば、学識者議員を加える。フランスの元老院のように、地域代表的側面を強調する。職能別選挙制度にする。世代間格差是正のため、それぞれの年齢層から同数の議員を選出できるようにするなど、様々な改革案はあります。)であれば、改憲に賛成です。特に参院については、現行制度では、衆院のカーボンコピーであり、解散もなく議員数も少ないのに権限だけは強く、「理の府」としての独自の存在意義はありません。むしろ長期的には有害であるとすらいえます。

むしろ戦前の貴族院の方が、独自性を発揮しており、鎌田勝太郎議員のように、自らの属する階層の利害を超えて全国民の長期的利益を真剣に考えて、行動された議員も多かったように思います。戦前の貴族院議事録をみても、法案審議において、勅選議員を中心に、実に水準の高い審議が行われています。

 

参議院は、貴族院の後継者としてはあまりにお粗末な存在であり、今日こそ、貴族院は再評価されるべきです。

 

因みに、英国貴族院は、権限は縮小されていますが、学識者議員を中心に「世界で最も高水準の演説を聞ける場所」とも評されており、縮小されたとはいえ、法律の執行(施行)を一年間停止できるという軽視できない権限を依然として保持しています。

 

私は、憲法96条先行改正(この発想自体おかしいのですが、既に複数の良識ある有識者がその問題については指摘されておいでですので、ここではその問題には触れません。)の先にある、改憲の叩き台である自民党2012年改憲案の内容があまりにお粗末だから反対しているだけです

繰り返しますが、改憲論議自体が悪いわけではありません。ただ、その内容が問題です。

同様に、典範改正についても、論議自体が悪いわけではありません。皇位継承に対する危機感も持っており、皇室の弥栄を心から念願しております。ですが、現在、一部で実に強力に唱えられている内容が「旧宮家復帰」だの「旧態依然たる養子解禁論」だの、一代限りの「女性宮家創設」だの、劣悪な内容だから反対せざるを得ないのです

熟慮に熟慮を重ねた結果の結論である2005年有識者会議報告書案に則った皇室典範改正であれば、賛成します。

要は、「是は是。」「非は非。」ということでございます。以上です。

 

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2013年06月18日 19:44

進子内親王

見るままに壁に消え行く秋の日の時雨にむかふ浮雲の空

あはれさらば忘れて見ばやあやにくに我が慕へばぞ人は思はぬ

どちらも風雅集の進子内親王のお歌です。

古より、女帝、内親王の御作の中には、和歌の清華とも評すべき珠玉のお歌が多いのですが、どちらも個人的に大好きなお歌です。

進子内親王は伏見天皇の皇女としてご生誕遊ばしましたが、悲しいことに、名君伏見天皇の御世のころから、いわゆる持明院統と大覚寺統の対立が先鋭化してもはや収拾不能な事態に陥りつつありました。いまだに真相は不明ですが、伏見天皇弑逆未遂事件まで起こっています。

両統の対立には、単に皇位継承だけでなく、膨大な荘園の配分争いも絡んでいました。

注目されるのは、両統とも、主要な荘園群を皇女から継承している点です。

持明院統を経済的に支えた長講堂領は、後白河法皇皇女の宣陽門院が60年ほど管理して、同院の猶子となられた後深草天皇に相続されました。

一方で、鳥羽天皇の皇女八条院に伝えられた八条院領は、高倉院を通じて、その皇女安嘉門院に承継され、大覚寺統の荘園となりました。

西欧の一部地域では、サリカ法典59章の女子土地相続権禁止規定が拡大解釈され、女子ないし女系の王位継承権が否定されていた時期もありました(現在でもそれを貫いているのはいまだに国王大権を保持しているリヒテンシュタインのみ。)。しかし、我が国ではそのようなことはありません。

また、現皇統は持明院統の流れですが、持明院統(北朝)は観応の擾乱時に、三上皇並びに皇太子が南朝方により、すべて賀名生に幽閉される事態となり、皇統断絶の危機に瀕しました。「男系男子の皇族」はいらっしゃいましたが、それだけで皇統が継げるという甘いものではなく、皇位継承のためには、立太子されているか、あるいは諒闇践祚の際は三種の神器が、受禅践祚の際には「譲国者」(天皇ないし上皇、法皇)からの譲りの儀式が最低限必要でした。

そこで、後伏見院のご正配であらせられた広義門院さまが「譲国者」となられ、受禅践祚を経て、後光厳天皇が即位遊ばされ、北朝は存続しえたのです。

広義門院さまは、その後も「治天の君」として、毅然として荘園などの管理をなさいました。

現皇統が存続し得ているのも、広義門院さまのお力と申し上げても決して過言ではございません。

昨今、「男系男子主義」だの「男系主義」だのといった言葉が安易に用いられ、甚だしきに至っては「旧宮家復帰論」などという妄説まで唱えられていますが、悲しい限りです。男系承継主義などより、もっともっと大事なものがあるはずです。

思えば、皇室の失墜は、保元の乱より始まりました。

鳥羽院は、後白河天皇の人格を問題視し、皇女八条院に皇位を承継させるご意向がおありでした。

歴史にIFは禁物ですが、八条院の登極が実現されていれば、保元・平治の醜態はなかったかもしれません。

今日同じ愚が繰り返されないことを切望いたします。

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