たおやめぶり


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2013年06月17日 21:33

「草枕」を巡って。

夏目 漱石に「草枕」という傑作があります。岩波文庫のものが比較的入手しやすいかも。

今回はそれについて少し思いつくことを書きます。

ひところ「必読書150」だの「東大生が新入生にすすめる100冊」だのがもてはやされた時期がありましたが、どちらからも選ばれてませんでした。

最近は、某名門高校の著名教師が「銀の匙」を授業で用いたとやらで、田舎の本屋にも(返本不可で有名な)岩波文庫の「銀の匙」が置かれてます。

なんで、こう日本人は「権威」「看板」「メディア」の御威光に無批判に従うのでしょうか?

自分の読みたい本くらい自分で決めても良いのでは?

 

「草枕」に話を戻します。

後になって、グルードが「草枕」を愛読していたことや、スーザン・ソンタグが漱石を高く評価していたことを知り、さすがにいいセンスしてるなと感心しました。

誤解してもらっては困るのは、「欧米芸術家や文化人」の権威を持ち出しているのではないということです。

私はグルードよりもリヒテルの方がずっと好きだし、スーザン・ソンタグはむしろ嫌いです。

ただ、「草枕」という文芸作品や「夏目漱石」という作家に対する評価が、彼・彼女らと一致したというだけの話です。

 

言いたいことは、「もっと自分の頭でものを考えようよ。」ということです。

旧ソ連の工作員により明らかになった「ミトロヒン文書」によれば、対日工作では「大手新聞社を使っての日本国内の世論操作は『極めて容易であった。』」そうです。

実に頷ける話です。ちなみに「産経新聞」内の協力者は優秀だったらしいですよ。

同じことを、時の日本政府や米国が全くやってないと考えるのは馬鹿げているのではないでしょうか?

もっと自分でものを見て、自分の頭でものを考えましょうよ。なんのために、英語やフランス語を勉強しているんですか?受験や昇進試験、教養のひけらかしのためですか?それでは意味がないでしょう。せめて世界の主要紙の動向くらいには目を通しましょうよ。

 

なんですって?うちは朝日と日経双方とってるから大丈夫?朝日だけでなく、産経も読んでるから問題ない?

そういう態度の方って意外と多いですよね。でもこんな言葉もありますよ。

「新聞を何部も買い込んで記事の確実性が増したと思っている男」(ヴィトゲンシュタイン)

あと、読売は最大部数だから何となく(この『何となく』が重要。)安心というような声も聞きます。

でも、商業誌であの部数になると、多方面に目が向きすぎてなかなか「本音」なんて言えませんよ。

外国人記者クラブかどこかで、読売の名物社長が「読売新聞」の発行部数を誇った際、ある外国人ジャーナリストが以下のようにつぶやいたらしいです(真偽の保証はしませんが、言い得て妙な表現だと思います。)。

「その部数では『プラウダ』と変わりない。もうメディアじゃない。」

 

しつこいですが、最後にもう一度だけいいます。読む本も、投票する候補者や政党も自分の目でしっかり確かめ、自分でよくよく考えて、自分の責任で決めましょう。自分の頭でものを考えましょう。

以上です。

 

 

 

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2013年06月17日 16:41

日本近代文学の起源と今日の政治。

文芸評論家の柄谷行人氏によれば、日本近代文学の成立と自由民権運動の挫折の間には、密接関連性が認められるとのことです。

ご興味のおありの方は、「定本 柄谷行人集 1巻 岩波書店 2004年」などをご参照ください。

これを今日の政治状況に置き換えてみるとどうでしょうか?

巷では、暫く下火になっていた芥川賞が再度、クローズアップされたり、いわゆる携帯ノベルが書籍化されたり、一見すると文学界は勢いを取り戻しているようにも思えます。

しかし、現実の政治状況はどうでしょうか?

先回の拙稿でも敢えて苦言を呈しましたが、「罹災者の方々の苦悩。」「多くの真面目な原子力研究者の良心の呵責」などをよそにあたかも、「集票のための記号」であるかのように、「脱原発」というフレーズが(それを本当に実行することに伴う負担を受け入れる準備や覚悟も十分でないままに。)安易に用いられています。

そして、なによりも、民主制国家の根本原理であるはずの、「一人一票」原則が蔑にされ、先回の衆院選において、17高裁判決が「違憲無効」「違憲」「違憲状態」と判断し、抜本的な制度改革を求めているのに、現政権は小手先だけの0増5減改正だけで乗り切ろうとしています。

また、参議院も先の最高裁大法廷判決で、制度の抜本的改正が要請されているのに、これを軽んじ、小手先改正しか行われないまま、来月の参院選に突入しようとしています。

麻生副総理はウォールストリートジャーナルに対するインタビューで、「参院選で、自民党を含む改憲派勢力が勝利すれば、安倍総理の関心は、(筆者註:自民党2012年改憲案のような復古調、保守色の強い内容の憲法改正を最終目標とする憲法96条先行改正などの)憲法改正に向かうであろう。」と述べています。

司法を軽んじ、違憲性の疑いが高く、正統性に疑義のある国会が、国家権力を縛る憲法を、国家に対する規制を緩める方向で改正するなど、笑止千万です。

現在、政治的意見の対立を超えて、心ある有識者や法曹実務家が中心となり、「一人一票実現国民会議」を組織し、日本の民主制を護るために戦っています。

また、そこでは

1 つぶやき祭り

2 駅活イベント(次回は7月11日 東京・新橋SL広場で開催予定。)

3 裁判傍聴

4 意見広告のための寄付(詳しくは、上記『一人一票実現国民会議』HP(www.ippyo.org)参照。)

5 Facebookによる情報拡散(https://www.facebook.com/hitori.ippyo)

6 一人一票実現のための裁判原告となること

など一般の方々でも可能な様々な活動を行っています。

詳しくは、上記HPに加えて

一人一票実現国民会議 事務局

e-mail:ippyp@ippyo.org

FAX 03-3780-3221

までお問い合わせください。少しでもご興味・ご関心がおありの皆さまは、お気軽にHPや上記連絡先にアクセスください。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

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2013年06月17日 00:32

文学の考えさせる力。

尊敬する水上 勉氏の短編に、「この冬」という佳作があります(新潮文庫 『醍醐の桜』所収。)。

目の不自由なかつての教え子と再開する話なのですが、その中で、江戸時代から文化水準、教育水準も高く、名君も生み出した若狭の国に、なぜ原発銀座が生まれたのか。なぜ、長い激しい反対運動や村長リコールも含む苦しい騒動を重ねても村民がこのような結果を選ばざるを得なかったのかが、言外に見事に描かれています。

福島第一原子力発電所事故という悲惨という言葉ですら形容できない、最悪の人災のはるか以前にあらわされた作品です。

私は、この事故について、もっと、電力会社、政治家、地方政治家、技術者、研究者の責任は追及されるべきだと思います。

でも、忘れてはならないこともあります。

戦後、非転向を貫いた共産主義者の方々を中心に、「戦争協力文学者」を糾弾する運動があり、その中には、著名な画家さえ含まれていました。

確かに、非転向を貫いた彼らには敬服しますが、他方で、彼らに対し、何の批判ができなかったことも事実です。また、非転向を貫かれた方々も獄死された例もありますが、逆に戦地に送られなかったため、生命を失わずに済んだという例もございました。

 

こんにちはどうでしょうか?確かに東電の当時の安全管理はコスト削減を美名にした、不十分なものであったことは事実ですし、当時の経営者は刑事責任も含めて責任を問われるべきでありましょう。

しかし、原子力の研究者の中には、自ら被爆しながら命がけで研究を続けていた、真の学究も大勢いらっしゃいました。

また、原発推進派から早期に「転向」された方々の中には、原子力研究機関で、税金で生活されていた方もおいでです。

真に、原発に反対するのなら、職業的な市民運動家や著述家におなり遊ばすべきではなかったのでしょうか?

彼らに、被ばくの危険と闘いながら、もくもくと研究をしていた人々を糾弾する権利はあるのでしょうか?前にも同じような現象が文壇でなかったでしょうか?

私は、世間的な用語でいえば、いわゆる「脱原発派」「安易な再稼働反対派」ですが、他方で、命がけで原子力研究に取り組んでこられた方々を非難・嘲笑・愚弄する気は毛頭ありません。嘘でもなんでもなく、優秀で真摯な研究者・技術者は大勢いました。こうした方々を蔑んではいけません。また、こうした人材の海外流出を許すべきでもありません。きちんとご家族も含めて生活保障をすべきです。

 

そうした措置を講じたうえで、政治主導のもと、脱原発、再生エネルギー促進に向け、大きく舵を取るべきだと考えます。

日本は地熱発電や風力発電など、再生可能エネルギー、自然エネルギーのポテンシャルが高い国です。

さらに、安全面を考えると必ずしも原発がコスト安とも言えません。国防上や対テロ対策上も原発立国は危険です。

フランスやスウェーデン、中国とは国情が異なるのです。

真剣な国民的討議と熟慮の元、上記決断をすべきです。

一時の感情に流されて「戦犯」を見つけ出し、つるし上げてうっぷん晴らしをすませたら、あとは物を突き詰めて考えようとしない。

廃炉のプロセスや廃棄物の最終処分もどうしようか、国を挙げて真剣に考えない。

一時的な株価乱高下で一喜一憂を繰り返している。

このような現状では、もはや日本は「国民の人権を守るために存在している。」近代国家の体をなしているとは言えません。これは実に恐るべきことです。

66年間以上に及ぶ我が国の民主制は、一人の天分ある文学者の深い洞察にも及ばないようです。悲しいというほかありません。

最後に、これだけは申します。政治家諸氏よ、「脱原発」を旗印にするのは良いが、内部抗争を繰り広げるのはやめなさい。どうして「小異を捨てて、大同につく。」ことすらできないのか?情けないぞ。「分割して統治せよ。」というローマの格言そのままではないか。

エネルギー政策は、ファツションやブーム、トレンドとはわけが違うのだ、冗談抜きで「国家百年の計」がかかっているのだ。そこを真剣にそれこそ命を懸けて考えよ。

想像力が不足しているなら、上記のような優れた文学作品に数多く触れ、それを養いなさい。上から目線の物言いで大変恐縮だけれども、真剣にエネルギー問題を考えているからこそ、これを書いているのだ、筆者を恨んでもよいがもっと真剣にわが身を顧みて考えよ。以上。

 

 

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2013年06月16日 10:03

三島と太宰。

私は、三島由紀夫と太宰治は両方とも好きなんですが、両者のファン層は一致しないことが意外と多いですね。

個人的には「近親憎悪」的なものだと思っています。

多くの病跡学の専門家が指摘しているように、太宰は「自己愛的傾向」が強い人物でしたし、三島由紀夫も片口安史博士のロールシャッハテストプロトコルにも表れているように、「同性愛傾向」だけでなく、「自己愛傾向」も強い人でした。

太宰は、自分の弱さや自己愛を隠そうとせず、露骨なまでに作品で表現しましたが、三島は、激しい武道鍛錬による肉体強化や、豪華絢爛たる文飾を通じて、自己のか弱さ、繊細さ、ナルシシズムを隠そうとしました。換言すれば、三島文学は華麗な鎧のような構築物であるとも評せましょう。

日本の一部では、三島氏を過剰に賛美する傾向がありますが、伊藤静雄、サイデンステッカー、吉田健一、淀川長治、松本清張等、著名な詩人・批評家・作家の中でも、三島作品(とりわけ晩年もの)や行動に対し、批判的な人が多かったことも銘記されるべきでしょう。

なお、誤解を避けるために申しますが、私自身は三島氏を高く評価しており、とりわけ「春の雪」と「近代能楽集」を愛読しています。

三島氏の自殺に際して、もっとも、適切なコメントを寄せたと思われる武田泰淳氏の文章をいかに引用いたします。出典は「三島由紀夫氏の死ののちに」(『評論集 滅亡について 他三十編』武田泰淳著。川西政明編 岩波文庫 1992年(2012年第六刷)197頁以下でございます。)。

「あなたの宣言と、あなたの決意にもかかわらず、あなたは一人の敵(男)をも殺すことなく死んでゆきました。」(上記201頁)

「自己肯定を求めすぎた結果、自己破壊のみが『救い』だと、思い定めたのでしょうか。」(同203頁)

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2013年06月16日 09:35

大正天皇と漢詩。

日本文学を語る際に、皇室と文学との関係は決して切り離せません。

近年、特に戦後は、皇室と和歌の関係ばかりが強調されるようになってきておりますが、江戸以前には俳諧を好まれた天皇陛下もおいででしたし、後光明天皇はじめ漢籍に明るい名君も数多くおいででした。

近代以降も、大正天皇の漢詩は素晴らしいです。

「大正天皇御製詩集」明徳出版社 新版2000年 初版1980年も出版されています。

個人的には「西瓜」の御作が好きですが。以下に、やや異色ともいえる詩を引用させていただきます。

政治的背景など感じさせない、日本漢詩の傑作のひとつです。

 

葉山南園与 韓国皇太子同看梅

 

 

 不管春寒飛雪斜 

 喜君来訪暫停車

 葉山歓会興何尽 

 共賞園梅幾樹花

大正天皇は、男系男子主義の旧憲法、旧典範下において、践祚・即位なさらざるを得ず、そのご心労もあり、心身を病まれました(御拝診書にも『御脳症あらせられ』と明記されています。)、これほど英邁な方でいらっしゃいながら、天皇としての過大なご負担が、心身をむしばまれたのでございましょう。おいたわしい限りでございます。

現在、「男系男子主義堅持。」が喧しく、甚だしきは「旧宮家復帰論」までささやかれておりますが、このような主張を強行に唱えられる方々は、生来、ご病弱であらせられたにもかかわらず、明治大帝の御子は、大正天皇以外は、内親王殿下しか成人されなかったため、皇統をお継ぎにならざるを得なかった、大正天皇の御苦悩に少しでも思いを馳せたことがあるのでしょうか?極めて疑問です。

成熟した立憲君主制諸国である、西欧(英国含む)や北欧では、既に「男女を問わない直系第一子優先主義」に王位継承法を改正している事実にいつまで目をつむろうというのでしょうか?

スウェーデンに至っては、次代と次々代の王は「女王」となることが現時点において、確定しています。

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2013年06月16日 00:53

お勧めサイトです。

「ひばりに寄せて」To a Skylark 

nagamiya.sakura.ne.jp/

「太陽の甦る日」

humming.nobody.jp/gallely/gallery.html

「皇室問題INDEX」設立準備室

blog.goo.ne.jp/index2013

「Mrs Oakley Fisheerの台所から」

mrsoakelyfisheer.blog.shinobi.jp/

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2013年06月16日 00:12

再び如是我聞へ。

如是我聞は、通常、志賀直哉に対する意趣返しの書と理解されていますが、全体を精読すれば、そんな単純なものでないことは明白です。

とりわけ、「二」の学者批判は極めて今日的で。考えさせられます。

以下、特に印象深い部分を引用します。

「田舎者の上京ということに就いてを考えてみよう。二十年前に、上野の何とか博覧会を見て、広小路の牛のすきを食べたというだけでも、田舎に帰れば、その身に相当の箔がついているものである。民衆は、これに一目置くのだから、こたえられまい。」

「外国へ行くのは、おっくうだが、こらえて三年おれば、大学の教授になり、母を喜ばすことができるのだと、周囲には祝福せられ、鹿嶋立ちとか言うものをなさるのが、君たち洋行者の大半ではなかろうか。それが日本の洋行者の伝統なのであるから、碌な学者の出ないのも無理はないネ。」

最近でも、やたらとうれしそうに、「この夏はワシントンへ行くんです。」とか、「帰国したばかりなので、文意が要領を得ない。」とか、気取った文章を書かれる学者さま方って多いですよね。そうそう、その外国でも忘れられていた「偉人」の墓を発見したのを誇っていた方もおいででしたっけね。

太宰が要領よくまとめてくれてます。

「所詮は、ただうれしいのである。上野の博覧会である。広小路の牛がおいしかったのである。どんな進歩があったろうか。」

「慇懃と復讐。ひしがれた文化猿。」

「みじめな生活をして来たんだ。そうして、いまも、みじめな人間になっているのだ。隠すなよ。」

「分を知ることだよ。繰り返して言うが、君たちは、語学の教師にすぎないのだ。所謂『思想家』にさえなれないのだ。啓蒙家?プッ!ヴォルテール、ルソオの受難を知るや。せいぜい親孝行するさ。」

「洋行するよりは、貧しく愚かな女と苦労することのほうが、人間の事業として、困難でもあり、また、光栄なものであるとさえ思っている。」

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2013年06月15日 23:59

誤解されている太宰。

よく知られているように、太宰治は、青年時代にマルクス主義系非合法活動に従事していた過去があります。

でも、「駆け込み訴へ」で、マルクス主義非合法活動からの離反を、淀みのない口述筆記で表明した太宰はその後も、皇室への畏敬の情を抱きつづけます。

終戦直後の昭和21年1月25日堤重久宛書簡には、

一、天皇は倫理の儀表として之を支持せよ。恋い慕う対象なければ、倫理は宙に迷うおそれあり

という記述がございます。

これは、司馬光の「天子の務めは『礼』を行うことにある。」旨の論評(『資治通鑑』威烈王)とも通じるところがり、極めて興味深いです。

また、今日の日本の倫理的、道徳的頽廃を予見していたかのごとき、鋭い目に敬服せざるを得ません。

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2013年06月15日 23:55

太宰と聖書。

太宰が新旧約聖書を熟読玩味していたのはあまり知られていません。

彼の小品に「パウロの混乱」というのがありますが、これを読むと、彼がいかに聖書を熟読し、ある意味では並みの聖書学者よりも深い聖書理解に到達していたことが解ります。

本当に短文ですが、味わい深い文章です。

是非、ご一読ください。

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2013年06月15日 23:44

明るい太宰

太宰と聞いてみなさんが思いつくのはなんでしょうか?

「人間失格」「斜陽」「ヴィヨンの妻」など、暗くて、自己愛的、厭世的、抑鬱的、そんな影のあるイメージはないでしょうか?

でも、彼の作品の中には、「走れメロス」だけでなく、「御伽草子」、「パンドラの匣」などの明るい作品群もあるんです。

そして彼の作品は天真爛漫というか嫌味が全くないんです。若いころ習った義太夫や津軽の民話夜語りも影響しているんじゃないかなぁ。

アンチ太宰の読者の皆様には

上記作品のほか

「女生徒」、「待つ」、「トカトントン」(少し怖いけど)、「右大臣実朝」、なんかを特にお勧めします。

彼の以外な一面に触れることができると思いますよ。

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